著者

佐渡島庸平

第三章 会話がもたらす孤独

2021/10/01 12:06

僕たちは生きている中で自分の言葉が相手に通じない経験をたくさんする。それはそこに「ズレ」があるからだ。しかし、ズレに気づきながらも、それを深堀りすることはほとんどない。僕はそのズレは、世の中をみる解像度が違うことで生じると思っていた。でもそうではなかった。

細谷さんの『具体と抽象』を読んで、通じなさを生むのは、解像度ではなく抽象度だと気づいた。
今回、細谷さんと対談を通して「ズレ」についての深堀りを沢山した。
その内容が『言葉のズレと共感幻想』という本になって年内に出版される。
僕のブログで1章ずつ先出し公開中。

 

不思議な光景

佐渡島 人って、仲良くなるのが難しいな、と思っているんです。学校というのは、よくできた仕組みで、友達を作るぞと意気込まなくても何人かできる。社会で出て知り合う人は、みんなそれなりの利害関係で結びついていて、親友だと思っていた人同士が、利害が一致しなくなると意外なほどあっさり離れてしまったりします。利害関係を超えて良好な関係を築けている人は世の中にどれくらいいるんだろう。純粋に疑問に思っています。僕は孤独をテーマにした『We are lonely,but not alone』という 本を書いたりもしています。僕は幼少期より、孤独を感じていたけれども、周りに人がいなかった訳ではない。逆に遊ぶ仲間はたくさんいて、会話が溢れていた。言葉に対して他の人よりもこだわりが強くて、会話がされればさるほど、孤独を感じていた。

 会議などの場で、お互いの解釈が僕からみると明らかに違っている人同士が「そうですね」で同意しあっていることがある。ああいうのがものすごく気になるし、これでは将来揉めるだろうと間に入る時もある。なぜ理解がすれ違っているにもかかわらず、「そうですね」と声を掛け合うのか。合意しているのか、それとも合意はしていないけど、関係を前に進めようと思って、あいまいなまま進めているのか。

 会議だけでなく、飲み会でも、同じように感じます。みんなが笑いながら、「わかる」とやり合う様子は、傍目には彼らが非常に仲がよく、互いに共感しあっているように見えるけれども、会話を聞いていると言葉が全然そろっていなくて、真逆のことを言い合っている。

 違うことを語っているのに、「そうだよねー」と発話しているのを、僕は不思議な光景と距離を置いてみていました。それはただ「仲良くなりたい」という気持ちを交換していル。それが目的なら、握手のような身体的接触の方が安心感を早く生むのではないか。言葉は、もっと丁寧にやり取りをした方が、早くなれるのではないかと。

 リアルなコミュニケーションだけでなくTwitterのようなSNSにも言えることで、僕から見ればそれは会話ではない。相手の話を聞かずに一方的にしゃべっているだけで、まったく話し合っていない。ちっとも会話のキャッチボールになっていない。そのことにずっと違和感を抱いてきました。

 多くの人にとって、会話は、猿の毛繕いのような仲良くなるための手段。それに僕は違和感があり、会話はもっと概念のすり合わせでありたいとい欲望がある。

 そのズレが、「僕が話しかけた言葉は誰にも届かないんだ」という観念に結びついていました。相手の話を受け取り、それに対して発信しても相手に受け取ってもらえないという感覚、言葉が通じていないという感覚が、「誰かと一緒にいてもすごく孤独だ」と僕に感じさせたのだと思います。

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