著者

三浦瑠麗

今回のダイアログ:幸せとは何か?社会的成功と思ってきたが...

2021/09/10 08:54

みなさん、こんにちは。三浦瑠麗です。

このニュースレターでは、身の回りのこと、社会事象、そもそも生きる過程でぶつかるさまざまな悩みや壁などについて、読者のみなさんの質問にお答えしていきます。

ぜひ、思うところをどしどしとお寄せくださいませ。

*本ニュースレターでお答えする質問は、まだ購読されていない方も含め広く皆様から募集しています。もし三浦さんにこたえてほしいことがありましたら、ぜひdesk@wiss.newsまでメールにてお問い合わせください。

本ニュースレターへの感想も併せて募集しております。WISS内でもご紹介させていただく可能性がございますので、ご承知おきください。

また、本ニュースレターのコンテンツは、WISSだけでなくその他のメディアでも転載、活用させて頂く予定です。その際に、本ニュースレター内で取り上げられた質問や感想を掲載する場合がございます。ご質問や感想をいただく際には、掲載にご承諾いただいたものとして進めさせていただきますので、ご了承ください。

 

今回は、こんな質問です。

 

幸せとは何か?

以前まで自分は、幸せとは、カバンを買ったり美味しいものを食べたり、結婚をする、社会的成功を目指すといった、いわゆる「ゴールテープを切る幸せ」のことを、それであると思って生きてきました。ところが幸せには、たとえば、SNSで人の悪口を書いてあるものを読みたくならない、人の不倫のニュースに関心が向かわないといった、「すがたかたちのない幸せ」と言うものがあって、本当の幸せはこちらではないだろうかと思うようになりました。後者は行為でない分、社会経済の循環に寄与しませんが、無条件であり、人の傷ついた心を癒してくれるように感じます。

三浦さんの私見で、幸せとは何かについて思うことがありましたら、答えていただけたらうれしいです。

 

 幸せとは何か、難しいご質問ですね。わたしにもそれが何なのだか、しかとは分かりません。

 快不快はわかりやすい。おいしいものを食べ、ほどよく飲み、温かい羽根布団にくるまり、たっぷりと寝る。信頼できる相手と気持ちの良いセックスをする。朝日がやわらかく差し込み、そよ風がカーテンを揺らし、肌を撫でていく。赤ちゃんがさらさらとした新しいおむつを巻いてもらって、くうくうという声。猫がぐうっと身体を伸ばすのを見る。風鈴が鳴る。サウナのあと、冷たい水に身体を沈めるとき。

 反対に、二日酔いの朝はしんどい。泥のように疲れた身体。おなかを下すときは絞られるように痛い。寝不足のときの、長ったらしい会議。傘をさしても靴がじゃぶじゃぶになるくらいの豪雨。蚊に刺されたあとに足が腫れたとき。肩こり。慢性的な頭痛。

 赤ちゃんの顔を覗き込んで、ねえ、幸せ?と聞いたら、笑うでしょう。あなたが幸せな顔を向けるとき、赤ちゃんはそれを察して笑います。この理由はよくわかりませんが、赤ちゃんの頃から備わっている人間の共感能力と、見守られている安心の双方からくるものではないでしょうか。自分を見守ってくれている人が幸せな顔をしていると、きっと物事は安全なのですから。

 快不快が、人間の生存や健康にとってよいものと悪いものなのだとしたら、それだけでいいじゃないか、とわたしはときどき思います。本来は、そうした快不快と周囲への伝播だけで済むところを、わたしたち人間はどうしても「幸せ」というものを考えてしまうのですね。なぜでしょうか。

 

 人間はせんじ詰めれば死を恐れる存在であり、社会的に生存しようとする動物です。死を恐れるがゆえに、何とかして危険を避け、将来を予見しようとする。社会的であるがゆえに孤独を恐れ、自分の存在が無視されたり忘れ去られたりすることに耐えられない。そして、社会的である人間の集団には、必ずやヒエラルキーと格差が生じます。それによって人間が「不公平だ」と感じるたびに平等を希求する気持ちが増幅される。

 人間は社会を維持する過程でこの格差に敏感になり、その格差に反発することを通じてしばしば相互のコミュニケーションを取り交わします。動物園のサル山の前にたたずんでニホンザルたちの様子をぼうっとみていると、いくつもの劇的な騒ぎがもちあがります。小さい子が仲間からえさを奪って走る。周囲で見ていた者たちが一斉に騒ぎだす。大人たちが面倒くさそうに介入をする。こっちで一つ収まったかと思えば、またあっちで似たようなゲームが展開します。不公平だ!という主張が周囲の注目を呼ぶのは、公平性というものが、そのおやつを取った猿ととられた猿、二匹だけの関心事項ではないからでしょう。人間のパワーゲームもこれと大して変わったものであるとは言えないのではないでしょうか。

 人間は強いものに憧れて持ち上げる一方で、強いものを叩くときがあります。必ずしも自分が関係していなくとも、不公平だと認識した状況に対して不平を言ったり、感情をあらわにしたりする。そのくせ、自分も機会さえ与えられればかくありたいと思っているのです。欲求がなければ反発もないのですから。強いものに憧れる気持ちと、不公平さに反発する気持ちは不即不離の関係にあり、敗者に共感する感情が湧くのは、まさに自分が負ける可能性を認識しているからこそ。そして、この不公平だという気持ちが暴走すると、おっしゃるようにSNSで人の悪口を読みたくなったり攻撃したくなったりするのですね。

 社会を成り立たせるためには、どうしても人間同士の関係性や序列に敏感であらざるを得ない。社会が多様化し、より安全になり、集団でまとまって動かずとも衣食住に不自由しなくて済むようになった現代でも、やはり人間は集団との触れ合いを求めるし、序列的思考から脱却することが難しいのです。だとすれば、わたしたちに不幸をもたらすものもおのずと明らかです。その強い欲求が否定的に刺激されたとき、人間は自分は不幸だと感じてしまう。

 つまり、ある程度の平等幻想や上昇可能性のある社会ではなおさら、序列や格差があることを日々認識してしまうことが不幸さにつながってしまうということですね。

 こうした人間社会につきものの不幸を脱却するためには、精神の奥底から生じるほかの衝動が満たされている必要があるでしょう。周囲とよい関係性を築き、必要とされること、自分が尊重されていると感じること。未来の不安を制御し、展望として見られるようにすること。人間は「不幸」をなかなかコントロールできません。自分でもよくわからないうちに、衝動に駆られてしまう。これらを制御したり回避したりすることが出来れば、自分に不遇感をもたらす隘路に迷い込まずに済みます。

 

 質問に挙げられた「ゴールテープを切る幸せ」の典型例は受験合格、就職、結婚ですよね。いずれも、その短期的なゴールのあとに控えている別のステージがあるためほんとうのゴールではないのですが、短期的に目標が区切られているがゆえに達成感があります。望んでいた何らかの立場やメンバーシップが手に入ったということ。結婚の場合は、それにお互いにかけがえのないものとして認めあったということが重なって、自分が承認されたという思いがこみ上げてくる瞬間であることは間違いないでしょう。「ゴールテープを切る幸せ」には、目標を立ててその願いを満たすという計画性、一歩先の将来を自らコントロールできた満足感に加えて、承認という要素があるのです。

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