著者

三浦瑠麗

今回のダイアログ:人はなぜ悲しむための時間を持つのか?

2021/08/26 10:19

みなさん、こんにちは。三浦瑠麗です。
このニュースレターでは、身の回りのこと、社会事象、そもそも生きる過程でぶつかるさまざまな悩みや壁などについて、読者のみなさんの質問にお答えしていきます。 
ぜひ、思うところをどしどしとお寄せくださいませ。 

*本ニュースレターでお答えする質問は、まだ購読されていない方も含め広く皆様から募集しています。もし三浦さんにこたえてほしいことがありましたら、ぜひdesk@wiss.newsまでメールにてお問い合わせください。

本ニュースレターへの感想も併せて募集しております。WISS内でもご紹介させていただく可能性がございますので、ご承知おきください。

また、本ニュースレターのコンテンツは、WISSだけでなくその他のメディアでも転載、活用させて頂く予定です。その際に、本ニュースレター内で取り上げられた質問や感想を掲載する場合がございます。ご質問や感想をいただく際には、掲載にご承諾いただいたものとして進めさせていただきますので、ご了承ください。

 

今回は、こんな質問です。 

 

(子育て)

20代後半、女性です。直近流産をしました。幸い初期だったため、母体には大きな影響はありませんでした。しかしながら、休みもそこそこに仕事をしていると、悼む時間を取っていない自分が薄情な人間であることを突き付けられているように感じたり、ちょっとしたことで涙もろくなってしまっていたりするなどして、気持ちが落ち着きません。
体験談なども探してみましたが、見つからず。友人に話す事でもなく。どのようにしてこの気持ちを消化すればいいのか、アドバイスいただけると嬉しいです。

 人間はなぜ、悲しむための時間をもつのかということを、わたしはお産で子どもを亡くしたあとになってから考えました。その理由はおそらく、生きていくためだと思います。悲しむための時間が生きていくために必要だったからこそ持つのであり、生きていくためにむしろ悲しむ時間を先送りすることが必要な人は、その時間をあえて取らないこともある。どちらにしても、私たちの人生は悲しみや苦しみに満ちており、けっしてそうしたものからは逃れられないのですから、過去に起きたことにせよ現在のことにせよ、どこかで引きずったり悩んだりするものです。
 不思議なもので、幸せを振り返るときにはまるで彩り豊かなショートフィルムを観客として見入っているようなものなのですが、悲しみというのは年月によって姿かたちを変えても身にまといつづける薄い衣のようなものだと感じます。若かった頃の悲しみは具体的で、対象が明確で、乗り越えることが可能で、何より幸せによって打ち消すことが可能でした。ただ、今となっては悲しみの本質をおそらく理解してしまったので、過去に激しい痛みをもたらした傷が癒えても、悲しみそのものは消えません。悲しみとともに生きていくことができるようになったという言い方もできるでしょうし、逆に、自分がどうこうすることで悲しみが解決可能だとも思えないのです。

 流産についてですが、同じ子どもを亡くすという体験でも、人によって、あるいはその時々によってわたしたちの感じ方は異なります。妊娠期間や原因のような客観的な状況の違いからだけでなく、ほんとうにさまざまに違うのです。人生におけるその喪失の意味合いが違うからでしょう。
 同じような週数で子どもをなくした人の体験を読んでも、助けになることはあるでしょうが、それは一時的なことにすぎない気がします。体験談などで、よく流産や早産の週数のような客観的な状況による区別に拘る人が多いのは、自分の喪失や痛みを言語化することが困難なために、客観的な説明に頼る方が楽だからです。しかし、あなたに痛みがあることは、客観的に誰かに説明しなければいけない類のものではないし、根源的にはご自身がその痛みの意味を理解することで緩和されていくものだと思います。
 人間の味わう喪失というのは、仮に実体が外の人からは見えにくいような喪失、あるいは本人にとっても霞のようにこの世から消えてしまった喪失でも、痛みがあるものです。
 あるアメリカのドラマで、誤診断で妊娠していると思った夫婦が、実際には妊娠していなかったことがわかり、悲しむシーンがありました。

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